5/2(土)  申命記12:8-19         

 

 

「主が選ばれる場所」

 

カナンの地でイスラエルの人々は、「主が御名を住まわせるために選ばれた場所」でいけにえをささげなければなりませんでした。その場所は具体的に書かれていませんが、「どの町がこみの中でも」(:15)とあるように各地に定められていくのだと思われます。人々はそこで自由に動物をささげ待てその肉を食べることができましたが、その血は食べてはなりませんでした。

 

 

  • それぞれが自分の目にかなうことをしている。 :8

神様はイスラエルがカナンの地に安定して住むようになったら、「今ここでしているようにしてはならない」と言われました。それはカナンの地で神様を礼拝する民としての新しい歩みをするためですが、場所が変わっていくからその内容も変わっていく、というだけではないようです。神様はその時のイスラエルの様子を「それぞれが自分の目にかなうことをしている」と言われています。これは士師記17:6、21:25にも出てくる表現で、人々が自分の判断で良しとすることを行っているだけで、神様の御心を行っているわけではないということです。

 

  • あなたがたが安らかに住むようになったら、【主】が御名を住まわせるために選ばれる場所へ :10,11

神様はイスラエルに、決まった場所で礼拝するようにと繰り返し命じられています。(他に:14,18)それはカナンの人々の礼拝と明確な差別をしなければならなかったというのが第一の理由です。彼らは好きなところで忌み嫌うべき異邦の習慣に従った儀式をささげていました。しかしより大切なことは、神様を礼拝するのは、神様の御心と人々の祈りの中で聖別された特別な場所が必要、ということだったのではないでしょうか。また実際面においても礼拝の時にささげられる動物を屠る場所、その動物を処理する人、そのための特別な道具、いろいろな必要が考えられなければなりません。「【主】が御名を住まわせるために選ばれる場所」というのはいろいろな面で特別なところでした。

ところがこの礼拝のことをイエス様はサマリヤの女性との会話の中で「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。」と言われました。(当時エルサレムでもサマリヤでも、神殿で礼拝することが当たり前でした)イエス様が来られてからの新約の時代、それは聖霊の働きの中、真理のみことばを中心に礼拝する「まことの礼拝者」たちが世界中で神様を礼拝する時代となったのです。

神様を信じる者が一人でいても、そこにイエス様はともにいてくださり(マタイ28:20)、信じる者たちが二人以上集まるなら、「わたしもそこにいるから」(マタイ18:20)とイエス様は約束してくださっています。また旧約の時代に多くのいけにえの動物がささげられましたが、永遠に有効ないけにえであるイエス様がささげられた十字架のゆえ、私たちは何処ででも何もなくても神様を礼拝することができるのです。

 

「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」        ヘブル9:12

 

「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神に

ささげようではありませんか。」      ヘブル13:15

 

  • ただし血は食べてはならない。 :16

聖書は「血はいのち」だと言います。(創9:4,レビ17:11)そのため律法は血を流すものは代価を払わなければならないと定め、いのちはいのちで報われなければならないとしています。(創9:6,民35:33)動物がささげられるということは、その人の罪はいのちを持って償われなければならないところを動物のいのちで償われるということであり、いのちである血はすべて神様にささげなければならなかったのです。

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